先輩の先生から「学習規律をきちんと整えた方が良いよ」と言われることが多いのですが、学習規律って一体何ですか?
「学習規律」と言うと、かなり広く感じてしまいますが…。学校教育は授業だけではなく、学校生活全体が「学習の場」ですよね。しかし「学校生活全体の規律」の話題だと話が長くなってしまうので、今回は「授業における学習規律」の話題だと捉えますね。
そうです!授業における学習規律の話です。
私の学校では授業時間における「机上に置いていい物」「教科書や鉛筆、ノートを置く場所」「挙手発言の仕方」「水筒の位置や飲むタイミング」「座り方」などが学校全体で共通の学習規律として決められています。
子どもには普段「主体的に学べるようになろう」と伝えているのに、何だか矛盾している気がします。
確かに違和感を感じてしまいますね。私は「学習規律自体は悪いものではない」と思います。話を聞いていると、「学習規律として成立するまでのプロセス」に課題があるのではないかと感じました。
学習規律として成立するまでのプロセス?どういうことでしょうか?
これから詳しく説明していきますね。今回も一緒に学びましょう!
今回の記事と関連した内容が以下の記事に書いてありますので、ぜひこちらも読んでみてください。
学習規律って何ですか?
この記事は以下のような人に向けて書いています
□ 学習規律を整えることに違和感がある
□ 学習規律が何のためにあるのかわからない
□ 子どものための学習規律について考えたい
冒頭でもお話しした通り、私は学習規律自体は悪いものではないと思います。
むしろ、子どもが安心して主体的に学習するために、そして学習効果を高めるためには必要なことだと考えています。
吉田順先生は著書「学級経営17の鉄則」の中で、「必要な管理には迷わない」と書いています。
つまり、学習をする上で必要な学習規律は迷わず採用する方が良いのだと捉えました。
例えば、必要な学習規律を整えなかったばかりに、教師自身が疲弊してしまっては元も子もないと思うのです。
教師が笑顔でいられない教室では、子どもも安心して学べないはずです。
学習規律を整えていく上で課題となるのは、「学習規律そのもの」ではなく「学習規律を子どもが理解するまでのプロセス」ではないでしょうか。
そのことについて、考えていきたいと思います。
この内容と関連した記事もありますので、ぜひ読んでみてください。
学習規律は「子どもと共に」創り上げるもの
みなさんは、学習規律を子どもに伝える際、どのようにしているのでしょうか?
例えば、以下のような伝え方は改善の余地があるかもしれません。
授業の時に、机の上に置いて良いものは、教科書、ノート、鉛筆1本、消しゴム1個、赤ペン1本だけです。これは学校全体で決まっていることです。必ず全員が守ってください。
完全なるトップダウンですね。
子ども一人一人の特性を無視しているようにも見えます。
個別最適化された学びにも、ほど遠いように感じます。
子どもはどう感じるでしょうか。
え?どうして?
私は自分が気になった文章にマーカーで線を引いた方が勉強をしやすいのに…
無理やりみたいで、やる気無くすなぁ…
学習規律は誰のためにあるのでしょうか?
もちろん「子どものため」ですよね。
一方で、先生の負担感を減らし、授業を進行しやすくするために学習規律を整えることも大切なことであることは理解ができます。
しかし、学習規律を伝えるプロセスはもう少し工夫ができるかと思います。
例えば…
学校全体の約束では、授業の時に机の上に置いて良いものは、教科書、ノート、鉛筆1本、消しゴム1個、赤ペン1本ということになっているよ。
それには理由があるよ。授業で使わないものが机の上にあると、せっかく一生懸命に考えたり調べたりしていたのに、物が落ちて集中できないとか、活動のジャマになることがあるよね。
だから、こんな約束を学校全体でつくったよ。みんなはどう思うかな?「確かにそうだな」って思えた?「これは守れそうだな」って思えたかな?
「守らせる」「やらせる」という意識ではなく、「理由を丁寧に説明して、子どもの合意を得る」というプロセスが大切だと思うのです。
すると、このような声があがると思います。
納得できたよ。でも、私はマーカーを使いたいから、マーカーも机の上に置いていいですか?
この場合はどうすればいいでしょうか?
ここで、子どもに合わせて変更できる余地がないのであれば、学校全体の約束が堅すぎるような気がします。
このようにマーカーだけではなく、学習用具やその配置にこだわりのある子どもは必ずいると考えられるからです。
「子どもは余計な物が机の上にあると集中できなくなる」という考えもあるかもしれません。
確かにそんな場面もあります。
しかしそれは余計な物があること以前に、授業そのものが子どもにとって退屈な場合が多いのではないでしょうか。
私としては、その後はこんな話にもっていけることが理想です。
そうだね。マーカーを使う授業では出してもいいことにしよう。みんなもそれでいいかな?
もしくは、「次の授業に必要なものを自分で考えて、必要なものだけを机の上に出す」ということにするのはどうかな?
こんなことを、私から提案するだけでなく、子どもから解決策が出てきたり、子供と教師で一緒に考えたりできることが理想だと思います。
さらには、こんな子どももいるのではないでしょうか。
僕は机の上は自分が好きなように置きたいよ。その約束は守れないと思う。
この場合はどうしますか?
こんなふうに話す子どもに対して、無理やり約束を突き通したとしても、それは何の意味もありません。
なぜなら、それは今の先生の前だけで「お付き合い」して守ってくれるだけで、納得はしていないので次年度以降は約束を守らないからです(次年度も無理やり守らせる先生だった場合はお付き合いが継続します)。
それどころか、不満を持ち続けたまま我慢して過ごした子どもの心は、いつか必ず先生への不信感や仕返しとなって表面化します。
そして、「あきらめて約束を守るようになった子ども」は、もはや思考停止状態ですので、自律的で主体的な学習態度が育まれる可能性は低いのではないでしょうか。
そこで私なら「こう言えたらいいな」と思います。
わかった。じゃあ、まずは好きなように置いてみよう。でも、必要がない物があることがわかったら、次からは机の上に置くものをもう一度一緒に考えてくれるかな?
もしくは…
わかった。じゃあ、まずは好きなように置いてみよう。でも私はみんなに授業をスッキリとした気持ちで受けてほしいと考えているから、また来週には机の上に置くものを一緒に考える時間をとってもいいかな?
といったように、子どもと共に創る・吟味する余地がある学習規律である方がいいと思うのです。
白松賢先生は著書「学級経営の教科書」の中で学校や学級の「きまりごと」について以下のように述べています。
こういった学校や学級生活の「きまりごと」を調整し、浸透させ、学校や学級において、児童生徒が生活を過ごしやすくするための指導を行うのが、学級経営の計画的領域です。
〜中略〜
言うまでもなく、私にとっての「当たり前」とあなたにとっての「当たり前」は異なります。だからこそ、社会(人と人との関係)においては、様々な人の合意の上で、「きまりごと」が成り立ちます。そのためきまりごとは、人によって、時代によって異なり、時に話し合って合意・改善するプロセスが必要になります。
白松賢(2017)「学級経営の教科書」東洋館出版社 p58-59
白松先生の著書からポイントとなることは、以下の3つです。
「きまりごと」の日常化
○ 固定的な「ルール」「規律」ではなく、合意に基づく「きまりごと」に
○ ルールと罰則・排除をセットにしない
○ 大切にすることで学校生活が心地よくなるように
白松賢(2017)「学級経営の教科書」東洋館出版社 p60より抜粋
学習規律が子どもの合意のもと、全員が「その学習規律は大切にしたいな」という気持ちのもとに成立しているのであれば何の問題もないと思います。
また学校によっては、「学習規律は徹底して守らせるルール」として、先生へも厳しく指導が入る場合もあるのかもしれません。
その学習規律が子どもにとって「納得のいかない」ものであるならば、定期的に修正してみたり、学級ごとに話し合って変更したりできる余地を残すことが理想ではないでしょうか。
そんな事を職場の同僚と話し合い、学習規律について学校全体で吟味できるように働きかけることも必要かな、と感じています。
子どもは誰もがよりよく成長したいと願い、たくさん学びたいと願っています。
そんな真剣な子どもの心を信じて、学習規律を共に創るという考えに立ちたいな、と思っています。
私の学級における学習規律
私が勤務している学校では「絶対に全員が守らなくてはいけない学習規律」というものは存在しません。
徹底して守るのは「子どもの安全管理や、学習権の保証」に関することだけです。
もちろん、望ましい学習用具の例や机上の使い方、学習態度や教室環境の例は示しています。
それはあくまで「よりよい見本」であり、それを踏まえて学級の子どもと共に考えていくことになっています。
現在、私の学級にある学習規律は以下の4つです。
以下の学習規律を、子どもと話し合い、合意に基づいてつくっていきました。
授業は全員で参加する
これはつまり、「みんなで学ぼう」ということです。
他のお友だちを無視して、「自分は課題が終わったから終わり」だとか「これはやりたくないからやらない」ではなく、授業の問いに最後まで全員で向き合おう、ということです。
誤解のないように書き添えますが、これは学習形態のことを言っているわけでもありません。
「一人で考えたい」「今はこの子と話したい」「グループでやりたい」など、学び方は基本的に自由です。
教室の通路に物は置かない
教室内の通路(人が歩く場所)には物を置かないことにしています。
机の横にかかっているものが床についているのもNGです。
この理由は単純に「危険」だからです。
私の授業では子どもが自由に歩き回って学習する場合が多いので、通路に物があると特に危険です。
足を引っかけて転んだ場合、大怪我をするかもしれません。
この学習規律はすんなりと理解してもらえました。
1つ問題となったのは、「水筒の置き場所」でした。
子どもは授業中にも喉が渇けば水を飲みますので、自分の近くに水筒を置いておきたいわけです。
教室内には水筒置き場もあるので、基本的にはそこに水筒を置くことになっています。
しかし、「私は通路の邪魔になる場所には置かない(自分の足元に置いている)ので、認めてほしい」という子がおり、それは認めることにしました。
授業は自分達でつくるもの
子どもは、「授業は先生が教えてくれるもの」「授業は先生が準備してくれるもの」という意識をもっている場合があります。
私は4月の最初の授業で、その学習観を変えてもらうことにしています。
もちろん、私は板書をしたり、今日の授業で扱う問題を提示したりはします。
しかし授業の核となる「本時で考える問い」や「単元全体の問い」は、子どもと一緒につくることにしています。
ですから、授業では問題や資料を提示した後は、子どもから「困ったこと」「考えたいこと」「感じたこと」「今日の学習の進め方」をどんどん発言してもらいます。
この場面で子どもが受け身になり、「次は何するの?」という状態なら、私は何もしないことにしています。
授業は子どもが自分で「こんなことをやってみたい」「こんなふうに学びたい」を決めて、私も可能な限りそれに寄り添うようにしています。
あとは深い学びとなるように子どもの発言をつなぎ、「なるほど、つまりどういう事かな?」「この場合はどうかな?」「○○さんの考え、面白いね。みんなはどう思う?」という具合に、子どもの問いをひろったり、ファシリテートしたりします(教科にもよります)。
しかし、ほとんどの場合は、教室内の様々な場所で学ぶ子どものもとを回りながら、「面白いね」「なるほど」「ここはどうするの?」「これはどういう意味?」と、話しかけながら個々の学びを深めるように働きかけています。
もちろん、45分間ずっとそうしているわけではなく、全体で共有する場面、確認する場面、議論する場面もあります。
誰も傷つけない
私が唯一、厳しく指導をする事でもあります。
4月の出会いの頃には、よくこんな話をしています。
私がどうしても許せない事が1つだけあるから伝えておくね。それは、誰かの心や体を傷つけること。わかりやすいのは「いじめ」だね。体を傷つけるだけでなく、心を傷つけることも。そんな事が起こらないようにお互いに気をつけていこう。特に言葉で傷つけられると、その言葉がいつまでも心に刺さって残るよね。もちろん、私もそんなことをしないように気をつける。人間だから「気がつかないうちに」とか「間違えて」しまうこともきっとある。だけど「相手を傷つけてしまうかもしれない」っていう事にはできるだけ敏感になって、気をつけて過ごしていきたいなって思うんだ。
この「誰も傷つけない」は、私の学級経営の核となるものであると同時に、大切な学習規律でもあります。
例えば、学習規律としては以下のような内容が、学級の風土となっていきます。
□ 誰かが全体に話しているときに自分の声を重ねない
□ 話し手の話を「聞いている」ことが相手に伝わるようにする
□ 相手の意見をまずは認める
□ やわらかな言い方を心がける
□ 誰とでも学ぶ
「誰も傷つけない」から派生して、こういった学級の風土が生まれます。
これら1つ1つも「学習規律」と呼ぶこともできるかと思いますが、これは「規律」というよりは「マナー」のような感じで、自然な形で少しずつ子どもたちへ浸透していくように働きかけます。
例えば、授業中に全体に向けて発表している子どもがいるのに、周囲のお友だちと話し出す子どもがいて、発表している声と重なって聞こえる場面です。
それは、全体に向けて発表している子どもの話を聞いていませんし、発表のジャマにもなっています。
そんな時は
ちょっと待って。みんなで考えてみよう。今、声と声がぶつかっていたよね。発表している○○さんはどんな気持ちになるかな?(声を重ねた本人ではなく学級全体に問いかけた方がいいと思います)
一生懸命に発表しているのに、嫌な気持ちになるかも…
そうだね。よく考えたね。声を重ねてしまったお友だちも悪気があったわけではないし、相手を傷つけるつもりも全くないよね。
これは、私たちのクラスにとって、とても良い勉強になったと思う。みんなに話しているときに声を重ねてしまうと、相手を傷つけるかもしれないんだよ。全体に向けて発表している人がいるときは、声を重ねず、話を聞くようにしようね。
こんな感じで、授業の中で折に触れて、子どもと一緒に考えていくようにしています。
授業の中で「傷つかない」つまり「嫌な思いをしない」という風土をつくることは、子どもの安心感にもつながります。
子どもが主体的に学ぶためには、「安心して話せる」「安心して活動できる」教室であることが、とても大切だと考えています。
また、白松先生の「学級経営の教科書」の中には以下のような記述があります。
計画的領域における指導の3つのコツ
1 キー(鍵)となるきまりごとを軸にする
2 手順の見える化
3 クラスの「心地よさ」を大事にする
白松賢(2017)「学級経営の教科書」東洋館出版社 p75-79より抜粋
キー(鍵)となるきまりごととは、自分にとって一番重要なこと、だそうです。
例えば、本の中では
「必ず全員が静かになってから話すことを徹底しています」
などが挙げられていました。
クラスの心地よさ、というのは、
「こうした方が心地よい」という信念体系に基づく指導だそうです。
終わりに
今回は「学習規律」として、特に授業場面における「きまりごと」について考えてみました。
学習規律を考える際に大切なことは「子どものための規律なのか?」「子どもの合意を得ながら共につくられたものなのか?」ということではないでしょうか。
しかし…
・教師自身が疲弊してしまいそうなこと
・誰もが納得できるような大切なこと(人権・生命・学習権に関わるようなこと)
などについては、「必要な管理」として、躊躇なく子どもへ伝えればいいのではないでしょうか。
また、たくさんの子どもが共に過ごす学校という場では、
・必ず守ってもらう大切な「きまりごと」はどれか
・子どもと共につくっていける「きまりごと」はどれか
ということを吟味することが必要なのだと思っています。
「学習規律」という授業場面のみの「きまりごと」ではなく、「学校生活全体のきまりごと」を考える際には、特にこうした吟味が大切ではないでしょうか。
学校や学級の実態に応じて、様々な「きまりごと」があるかと思います。
こうした「きまりごと」については、私自身も日々迷いながら試行錯誤しています。
子どものことを大切に考えれば考えるほど、「この場合はどうすればいいのかな?」と迷いますよね。
明確な答えは出せませんが、私なりに考えたことを書いてみました。
学習規律について考える際に、今回の記事が少しでも誰かのお役に立てると嬉しいです。